のんのこ諫早まつりの歴史
「のんのこ」とは
“愛らしい、かわいい”
という意味です。
のんのこ諫早まつりについて
のんのこ諫早まつりは長崎県央に位置し、北は雄大な多良岳の秀峰を仰ぎ、東は有明海、
西は大村湾、南は橘湾と三方が海に面している自然豊かな諫早市で、毎年9月に前夜祭を含む
3日間にわたって開催されます。市内各地の郷土芸能を中心とする前夜祭(会場:諫早文化会館)は、
毎年、開演前から長蛇の列を作り、前夜祭という名にふさわしい盛り上がりを見せます。
本番祭1日目は、まつりのメインとなる「のんのこ街踊り」を中心に構成されています。
「のんのこ街踊り」には、市内の企業や学校をはじめ、約60団体が参加、参加者総数は毎年増え続け、
7千名近くに登ります。本番祭2日目も「ふるさと芸能の祭典」のほか、様々なイベントが催されます。
会場は、国重要文化財第一号に認定されている眼鏡橋を持ち、「日本の歴史公園100選」にも選ばれた諫早公園一帯をメイン会場とし、
期間中は延べ10万人もの人出で賑わいます。もともと諫早市内には、
春を告げる「つつじ祭り」夏の「諫早・川まつり」「のんのこ祭り」秋の実りを祝う「秋祭り」と
四つの祭りがありました。その中の「のんのこ祭り」と「秋祭り」は開催期間が近いこともあり、
参加する市民から二つのお祭りを一つにまとめられないかなどの要望が強かったことから、
平成10年度より一つの祭りとなり「のんのこ諫早まつり」として新たなスタートをきりました。
諫早のんのこ節について
諫早市民に最も親しまれている民謡、それが「諫早のんのこ節」です。「のんのこ」とは、
諫早の方言で「かわいい」という意味です。両手にそれぞれ2枚の小皿を持って踊るので、
別名「皿踊り」とも言います。
「諫早のんのこ節」の歴史は江戸時代の参勤交代での出来事が始まりだと言われています。
諫早の藩主が江戸参勤交代で箱根の関所を通過中に関役人は不覚にも居眠りをしていました。
関所を通るときは大鳥毛・槍などの道具類を45度以上前方へ傾けるのが決まりでしたが、
役人の声がかからないので、道具を傾けずに通過していました。ところがこれに気付いた役人が
「天下の関所を立て道具のまま通るとは何事ぞ。早々に引き返せ」と怒鳴りましたが、
行列の最後尾にいた足軽頭の小柳与右衛門が肩衣を脱ぎ、関所の玄関にわらじのまま片足を踏んで
「なぜ通らぬ前にとがめない。行列を引き返せというなら職務怠慢のその者らがまず腹を召されよ。
さらば行列を戻そう」と啖呵を切ると、役人は言葉につまり、行列は関所を通過しました。
関所から数キロ離れた所で一行は道端の芝生に腰をおろし「立て道具のまま関所を越えたのは吾が藩のみぞ」と言って
酒盃をあげたそうです。その時に歌心ある藩士が即興で"芝になりたや箱根の芝に、
諸国大名の敷芝に"と歌ったのが「のんのこ節」の元唄になったと伝えられています。
のんのこ節とは?
皿踊り …………………
のんのこ節の別名、皿を使う踊りのため
本踊り …………………
昭和30年に踊り、歌が作られる、座敷踊り
道行き …………………
本踊りを街踊りとして振り付けられた踊り
新のんのこ ……………
昭和59年に男性の参加、簡単に踊れるようにと作られた踊り
まつりのんのこ ……
平成2年に作られた、もっとも歌、踊りともにパワフルな踊り
諫早が誇る「のんのこ節」は、「皿踊り」という別名があり、両手にそれぞれ2枚の皿を持ち、
曲に合わせて調子よく打ち鳴らす全国でも珍しい踊りです。干拓の潟を担い上げたりの労働の後、
宴会等でそばにある皿を持って踊ったものが原型と言われています。
「本踊り」は、昭和30年に石川美芳 振付、赤坂小梅 唄でレコード化されました。
本踊りの誕生の裏には大勢のお力添えがあったことは言うまでもありません。
昭和44年開催の長崎国体では、フィールドいっぱいこの踊りで選手団を迎えました。
「道行き」は、諫早大水害から3年目の昭和35年に水害復興の街踊りが行われました。
座敷踊りの「本踊り」を、当時発足して間もない諫早民謡協会が街踊りとして振付けたのが「道行き」です。
のんのこ皿踊りが、広く親しまれるなか、男性の参加を、また誰でも簡単に踊れるような振付をとの声を受けて、
昭和59年に有志の方々により阿波踊り風のノリで振付けられたのが京極加津恵 唄の「新のんのこ」です。
(※諫早 まつりのんのこ連 の HPより抜粋)